~終末のフール~ Readerあやvol.6

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終末のフール

★どんな本

八年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。
そう予告されてから五年が過ぎた頃。
当初は絶望からパニックに陥った世界も、
今や平穏な小康状態にある。
仙台北部の団地「ヒルズタウン」の住民たちも同様だった。
彼らは余命三年という時間の中で人生を見つめ直す。
家族の再生、新しい生命への希望、過去の恩讐。
果たして終末を前にした人間にとっての幸福とは?
今日を生きることの意味を知る物語。

★どんな著者

伊坂幸太郎
1971年千葉県生まれ。
東北大学法学部卒業。
2000年「オーデュボンの祈り」で第5回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。
04年「アヒルと鴨のコインロッカー」で第25回吉川英治文学新人賞、
短編「死神の精度」で第56回日本推理作家協会賞(短編部門)、
08年「ゴールデンスランバー」で第5回本屋大賞・第21回山本周五郎賞を受賞。
他の主要作品に、「ラッシュライフ」「陽気なギャングが地球を回す」
「重力ピエロ」「魔王」「フィッシュストーリー」「モダンタイムス」など。

★学び

想像力

この本は短編集で、仙台のヒルズタウンという団地の八人の住人の視点で描かれます。
「八年後に、小惑星が衝突して地球は滅亡する。」と発表されてから五年。
自分の命は残り三年と知った中、日本の首都から離れた仙台という土地で小さな団地に住む人たちの物語です。
それは決して、特別な主人公の物語ではありません。
女の子の、お父さんの、息子の、男の子の、一人の人間の、物語。

だからこそ、「生きるとは何なのか」「死とは?」という永遠のテーマを
私だったらどうするだろう、という視点に立って考えられます。

小さな団地の住民たちの間でも、
決して避けられない死を前に、様々な人生があります。

でも、この物語で一つだけ共通しているのは、
人との出会いを通して、置かれた状況で一番”幸せ”な道を歩んでいくこと。

“幸せ”の形は、人それぞれです。
地球滅亡発表直後のパニックの最中に大切な人を失い、自ら命を絶つ人。
「三年後に死ぬからといって、生き方が変わるんですか?」といつも通りの生活をする人。
三年後全人類が死ぬという事実に対してガッツポーズをする、難病の子供を抱える父親。

“幸せ”に正解はありません。
小さな団地の住民たちの中でも、いろんな生き方があります。
それは、物語の中だけではなくて、現実の世界でも同じ。
私たちの家のお隣さんにも、お隣さんの人生があります。
人身事故で亡くなった顔も名前も知らない誰かにも、その人の人生があります。

そのことを、私たちはどれだけ想像できているでしょうか??

この本の著者・伊坂幸太郎さんの本「オーデュボンの祈り」に、こんな一節があります。
「彼は人の気持ちがわかる人間ではないようだったが、ただのバカではない。
想像力を持っている。感謝することを知っている。」

想像力があれば、「事実」の背景に思いを馳せる力があれば、
感謝することができます。
感謝の反対は、当たり前です。
当たり前が蔓延した世界に幸せはありません。

今、私たちの多くは、いつ死ぬかわかりません。
明日かもしれないし、何十年も後かもしれない。
いつ終わってしまうにしても、私たちの人生に感謝があれば、
感謝できる心があれば、それだけで幸せなのではないでしょうか?

生きるということ

言うまでもないことですが、私たちは一人では生きていくことはできません。
ご飯を食べるにも、遠く離れた人が食物を作ってくれているから。
インターネットにつなぐのにも、昔の人が「遠く離れた地にいる人と繋がりたい」という理想を描いたから。

そして、それ以上に
私たちは、親に生かされています。

そう思わされるシーンが、いくつもありました。

主人公が子供時代にいじめられて、「自殺してはいけないか?」と母親に問うたとき。

「彼女は私の告白を聞くと、おいおいと泣き、お前は偉いよ、そんなの苛めてくる奴が悪いに決まってるよ、
と正論を吐き、『私が、そいつらを殺してやるから、お前は死んじゃ駄目だ』と無茶なことを訴えたりもした」

主人公の経営するお店のお客さん(蔦原)のエピソード。
地球が滅亡すると発表され、世の中がパニックに陥った時、家に暴漢たちが押し入った時。

「二階の部屋にいると、親父が下から怒鳴ってるんだ。『出てくるな、こっちは大丈夫だ』って。
それから、『頑張って、とにかく、生きろ』って最後、言ってたな。」

私たちは、親に守られて今生きているんだと、そのことを知っていなければいけないと、思いました。

また、主人公がまだ小さい「未来」という名前の娘に対して。
(小惑星が衝突すると、世界は大洪水に襲われる。少しでも長く生きようと、主人公の父親はヒルズタウンの上に
日曜大工のように櫓を建設していた)

「けれど、きっと私と華子は、そして父は、死に物狂いで櫓によじ登るに違いない。
周囲を飲み込む洪水の迫力と速度に青ざめ、絶望に窒息しそうになりながらも、
娘を抱えて、上へ上へと進んでいくだろう。それは確かだ。
周りの水位が上がってくるのであれば、この建物が深海に沈むのであれば、その水面よりも
1センチでも一ミリでも高い場所に未来を逃がそうと、櫓から手を伸ばし、背伸びをするはずだ。
他の誰かが助けを求めてくるのを蹴落とすかもしれない。
とにかく未来を、私たちの未来を、1分でも一秒でも長く生かすために、なりふり構わず腕を伸ばす。きっとそうだ。
みっともなくて、見るに耐えない必死さだろうな、と思ったところで私は、自分の方から下がる娘の足をポンポンと叩いた。」

私たちは、「生かし合い」の連鎖の中にいます。
生かされているし、人を生かしている。
そして、生かすということは、生きるということは、がむしゃらなこと。
必死で、カッコ悪くて、見るに耐えないこと。
でも、その連鎖の中にいる私たちにとって、著者は
「がむしゃらに生きることは、義務だ」と述べています。

生きることは、大前提。
どれだけみっともなくても、生き続ける。
どれだけ苦しくても、生き続ける。
「生きる」ということから逃げてはいけないと、思いました。

★こんな人にオススメ

・生きる意味について考えたい人
・長編作品が苦手な人
・伊坂幸太郎さんの作品に触れたことがない人

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