〜留魂録 吉田松陰の死生観〜 Reader瑞季 Vol.94

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留魂録 吉田松陰の死生観

★どんな本

幕末の激動期、
短い生涯を激しく燃やした吉田松陰。
その情熱は周囲を動かし、
高杉晋作や久坂玄瑞など、
維新の中心となる人物を生み出す。

本書は、松陰が、
獄舎で処刑される前日の夕刻まで、
自身の思いを発信し続けた
『留魂録』を現代訳し、解説。

さらに、『留魂録』以前の
手紙や論文の中からも「死生観」
をあらわした史料を選び加えた。

また、一番弟子ともいえる金子重之助、
松陰の処刑後も自らの志を貫き
維新を迎えた野村和作に注目し、
松陰との関わりを著した。

死を恐れることなく、
つねに前を向きつつ、
死によって、みずからの命が
断ち切られるまで、
“誠”の心のもとに“私”を“更新”
してやまなかった松陰の「死生観」を学ぶ。

★読書のきっかけ

○死生観を更に高めるため
○志に生きし男に触れ、より志を強くするため

★どんな著者

松浦光修さん
昭和34年(1959年)、熊本市生まれ。
皇學館大学文学部を卒業後、
同大学大学院博士課程に学ぶ。
専門の日本思想史の研究のかたわら、
歴史、宗教、教育、社会に関する評論、
また随筆など幅広く執筆。
現在、皇學館大学文学部教授。博士(神道学)

①七度生きる-七生説

この七生説は松陰が
楠木正成を想起しつつ、松陰なりの
人生観を語ったもの。

「道義のため、正義のため、
ことを行うことが大切です。
どうして名誉などを望む必要があるでしょうか。
楠公は、
『私は朝敵とともに、この世には生きない 』
と誓って、みごとに討死されましたが、
その楠公のお墓こそが、
いま私の眼の前にある、
『嗚呼忠臣楠子の墓』です。
私は後ろ髪を引かれる思いがして、
しばらくそこを立ち去ることが
できませんでした。

そもそも人間にとって、
たんなる肉体の生死などというのは、
じつはたいしたものではありません。
(それを超えたものが大切なのです)。
その証拠に、
(楠公の事跡を知ったなら、
どれほど時代が変わろうと)
欲深い人も感化されて清廉になり、
意気地なしの人でも
感激して高い志を立てるようになります。

そういう意味で、楠公は死んでいません。
ずっと生きているのです。

いくら本を読んで知識を蓄えたところで、
人は、ただそれだけでは、
世のため人のため、
何の役に立つこともできないまま、
人生を終えてしまうでしょう。

その人に “私は日本の道義を、
体を張ってでも守る ”という
高い志がなければ、
いったん国に大事が起こった時、
どうして迷わず正しい道を踏み、
立派な功績を残すことができるでしょうか。

私は、私のあとにつづく人々が、
私の生き方を見て、
必ず奮い立つような、
そんな生き方をしてみせるつもりです。

そして私の魂が、
七たび生まれ変わることができれば、
その時、はじめて私は、
「それでよし 」と思うでしょう。
はたして私に、
そういう生き方が可能かどうか …。
それは、ひとえに今後の
私の生き方にかかっています。
そのような思いを込めて、
私は 、この 「七生説 」を書きました 。

この七生説を読んで同じことを
21歳の時に感じたことと、
考えたことがあることを思い出した。

それは今でも半年に一度伺う、
霊山記念館の裏にある
霊山の幕末の志士たちの墓にて、
坂本龍馬の墓を見た時に
楠木正成公の墓を見た
吉田松陰と同じように
僕も全く動けなくなったという体験をしている。

本気で社会のために命を捧げ
生ききった男の墓を前にし、

言葉は聞こえないし、
目にも見えないが
確かにそこに後ろ髪を引かれる思いがし、
その場を動けなくなった。

「おまんはこのままで良いんか?」

「おまんが次の世代に見せたい社会は
今の社会か?」

そんな声が聞こえたような気がして、
悔しくて佇んだのを今でも覚えている。

坂本龍馬も吉田松陰も
150年超えた今、
僕の頭の中で生きている。

彼らならどうするか?
彼らが今の社会を見たらどう思うか。
確かにそんなことを僕は考えることが多い。

まさに七生説で言う、
時を超え肉体を超え
今にも影響を与えている。

僕らの生き方を未来の世代が
受け継ぎたいと思うか。

まずその己の生き方を振り返る機会。

七度生まれ変わっても志に変化がないような
大きな志を持ち、そして生きよう。

②信じるとは?

ちなみに、今の世の中には、
“不思議な現象”を一つも認めない
というような “唯物思想”の人が
少なくありません。

それが、“古い変わった考え方”
だということは、すでに申し上げました。
しかし今は、その一方で、
“不思議な現象”をふりかざし、
“パワースポット”などに夢中になる人も
増えています。
私は、“それも考えものではないか”と
思わざるをえません。

言うまでもなく、信仰そのものは、
とても大切なものです。
かつてマザー・テレサは 、
「信仰なしに人生の意味はないでしょう」
と語っています。
テレサは、「信仰」とは、
一人ひとりの人生に「意味」を
与えてくれるものである、
と言っているのです。

その言葉に、私は深く共感します。

しかし、その言葉に共感すればするほど、
近ごろ多く見られる、
自分の勝手な願いを神仏にぶつけて、
「ご利益 」ばかりを求めるような
「信仰 」に、
私は疑問を感じざるをえないのです。

それは、まるで神仏に向かって
「自分に仕えよ」と、
命じているようなものではないでしょうか。

それでは、話が “逆 ”ではないかと思います。

自分が 「神仏に仕える」のが、
ほんとうの信仰のはずです。
「自分が、自分が」と、
自分への 「ご利益」ばかりを求める
「信仰 」は 、つまりは、かたちを変えた
「利己主義 (エゴイズム)」
ではないでしょうか。

ですから、そのような
「自分が、自分が」の
「信仰」は、
マザー・テレサが語っているような、
ほんものの信仰からすれば、
むしろ対極にあるものではないか…と、
私は思います。
ひと口に 「信仰 」と言っても、
いろいろです。

もしも 、自分の「ご利益」ばかりを
“求める”ような、
あるいは “求めさせる”ような、
そんな 「信仰」を見たら、
私たちは、たぶん眉に唾をつけた方
がいいでしょう。

「自分の信じるものくらい自分で決める。」

僕はそのことを考えて今日まで生きてきた。

生まれてこのかた神頼みはしたことがない。

それは神様が嫌いとか宗教が嫌いとか
そんな話ではなく、

何かに自分の生きる道を委ねた時、
うまくいかなかった時に誰かのせいにする
甘えを許したくないから。

神頼みしてうまくいかなかった時に
神のせいにしてる人を見てると、
何様なんだ?

ってなぜか幼少期から思っていた。

思い通りに自分の考えを具現化してくれないから
神も人も信じない。

なんてえらく筋違いだなぁとずっと感じてた。

そもそも神も人もコントロール
出来るものではなく、
コントロールできるものは唯一己の思考と行為。

ただ、それだけ。
全ての源は自分。

そもそも人の善なる心を信じて、
神という空想上のものの力を借りて、
社会を組織をそして人生を良くするために
宗教は存在する。

その宗教を巡って社会を組織をそして人を
破壊するなんて本末転倒も良いところ。

神とは僕の捉え方では、
ある意味人の生き方の理想。

原理原則の集大成。

そこに仕える事で上手くいくことが
多くあるから、

宗教はこんなにも多く世界に普及している。

時に人は様々なものの本質を捉えずに
目に見えてるものばかりに焦点が当たる。

だからこそ、目に見えてるものだけでなく、
自分の内なる目で本質とは何なのかを
客観的に冷静に考える時を持つことが
時に人を妄信させず冷静にさせる。

松陰は、言うまでもなく
神仏を敬っていた人。

ただし、神仏に
「あれをしてくれ、これをしてくれ」
というような 「信仰」は、
拒否していたように思う。

神を敬するが頼まない。
考えてみれば、これはまさしく
「武士道」の真髄をあらわしている
言葉ではないか。

★こんな人にオススメ

*志に生きたい人
*指導的立場にある人
*若き指導者
*日本人の心を知りたい人
etc…

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