~カルピスをつくった男~ Readerタクvol.10

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★どんな本

「初恋の味」はどこからきたのか。
誰もが知る国民飲料。その産みの親を誰も知らない。
会社の売上げより国の豊かさ、そして日本人の幸せをひたすら願ったカルピス社創業者・三島海雲。筆者は同社OB、遺族のもとを訪ね、遂にはカルピス誕生の地モンゴルに飛んだ――。
近代日本を軽やかに駆け抜け、遊牧民の生活から夢の乳酸飲料を着想した男の生涯を辿る人物評伝。
(本書帯紹介文より)

★どんな著者

山川徹
ノンフィクションライター。1977年、山形県生まれ。東北学院大学法学部法律学科卒業後、國學院大學二部文学部史学科に編入。大学在学中からフリーライターとして活動。著書に、北西太平洋の調査捕鯨に同行した『捕るか護るか?クジラの問題』(技術評論社)、『東北魂ぼくの震災救援取材日記』(東海教育研究所)、『それでも彼女は生きていく3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)など。
(巻末著者プロフィールより)

★学び

成功者の人徳

カルピスは、日本初の乳酸菌飲料であり、今でも日本国民で知らないひとはいないほどの国民的人気商品である。
これを開発し、カルピス社を立ち上げたのは三島海雲という人物だ。
彼が発明したカルピスは、モンゴルを旅した時、遊牧民族からふるまわれた、彼らの伝統的な乳飲料がもととなっている。
筆者は、彼の過去を知るためモンゴルの民族、ジャンバルジャヴの一族のもとへ足を運んだ。
そこでは、一族の多くの人々が三島のことを覚えていた。
三島がモンゴルにいたのは1908年、いまから100年以上前のことである。しかも、当時の三島は経営者でもなんでもない、ただ一人の旅人にすぎなかった。
にも関わらず、ジャンバルジャヴの一族は彼の名前を語り継いでいる。草原での生活になじみ、誰とでも打ち解け遊牧民たちに愛された彼は、「素晴らしい人だった」と民族の記憶に残っていた。
それほどまでに、彼の人徳は本当に素晴らしいものだった。ここに、彼の成功した大きな要因があるのだろうと私は思う。
三島は生まれつき体が悪く、経済的にも身体的にもさほど恵まれた方ではなかった。また彼は吃音症で、人に比べてできないことも多くあったようだ。
それでも彼が、100年以上たっても愛される商品を生み出し大ヒットを創ることができたのは、彼が多くの人に愛され、たくさんの人たちの力を借りることができる人徳を持っていたからだろう。

貢献に生きる

彼の人徳がわかる逸話は他にも残っている。
カルピスが発売されてから4年後、1923年9月1日、関東大震災が起こった。
東京は水不足に悩まされ、多くの人々が苦しんでいた。そこで彼は、無償で被災者救援のためカルピスを配るという決断をしたのだ。
トラックを4台チャーターし、うち1台に自分も乗り込んで、経営者自ら救援活動を行った。
この出来事から、カルピスは日本国民に一気に知れ渡ることとなった。

この活動でカルピスの清廉なイメージは全国に知られるようになる。だが、カルピス社の救援活動をみながら<広告にしても感心なことだ>と書いた前田(※新聞記者)に対して、三島は反論する。
<広告しようなどという気持は、微塵もなかった。困っている人々を助ける――という、まったく純真な、人間としての衝動からだけである>と。

三島が示した経営指針がある。それは震災直後の救援活動にも通じる考え方だ。
国利民福。三島は、国家を富ませるだけでなく、国民を豊かに、何よりも幸せにしなければならないと訴え続けた。

三島は、会社の売上や自分の利益ではなく、ひたすらに国民の幸せと国の豊かさを願って行動していた。
その貢献に生きる姿が、多くの人の心を動かし、カルピスを国民的飲料にまでのし上げていったのだろう。

志が人の心を動かす

本書で中心的に語られているのは三島海雲の人生であるが、彼の人生を取り巻く人々の生き方もまた、私にとっては大きな学びとなった。
三島は、もともとは教育者として学校教育に携わっている。最初は英語教員を仕事に選ぶも、教えることの難しさを感じたことで一度職をやめ、上京し大学に通いなおすことにした。
そこで彼は、中国で新たにできる学校で教師をしないかと、指導教授から声をかけられる。それをきっかけにして中国に渡り、中国初の日本語教師として活躍することとなった。
その日本語学校の創設者、中島裁之は、まさに志に生きた人である。教育の場作りを通して、少年たちに夢や目標を与えることが彼の志だった。
1900年義和団事件が起きたとき、中島は連合軍によって破壊された町や途方に暮れる民衆の姿を見て、使命感に突き動かされた。
事件後、教育機関が閉鎖されてしまい、青年たちは学びを続けるための場を奪われてしまっていた。そこで彼は、有力政治家である李鴻章に面会を取り付ける。

「少年たちに目標や夢を与えるには新たな知識を教える学校が、次の世代を教育する教師を育成する場が、必要なんです……」
教育に対する中島の熱意は、有力政治家の心を打つ。李鴻章が協力を約束したのである。
北京東文学社――。中島が北京外城前講演の中に立つ錫金会館に表札を掲げたのは3月20日のことだった。

少しでも早く、若者たちのために教育を届けたい。そんな中島の想いが、李鴻章という大物の心を動かした。
事件によって環境が変わってしまったことで諦めるのではなく、だからこそ自分が使命感を燃やし行動に移す。そんな熱い思いを持つ中島との出会いが、三島の行動力や情熱をより強めたのかもしれない。
国民のため、国のため、私心を捨て利他のために三島は生きていた。
だからこそ、同じように誰かのために生きられる人物との絆や縁が生まれていき、より一層彼の人生は豊かになっていたのだろうと思う。

★こんな人にオススメ

・経営に興味がある人
・商品の企画・広告をやりたい人
・成功者のルーツに関心がある人
・成功者の生きざまに触れたい人

etc…

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