~ははがうまれる~ Readerたけをvol.4

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ははがうまれる

★どんな本

多くの人のトラウマと向き合ってきた精神科医が、自身の経験や専門知識も交え、
子育てのこと、母親を取り巻く様々な問題について、やさしく語りかけるエッセイ集。
赤ちゃんの泣き声にイライラしてしまう、
ママ友付き合いで自分一人がはずれているように感じる…。
日常の小さな悩みや違和感、言葉にならない気持ちを丁寧にすくい取り、
そこから抜け出すヒントを提示してくれます。
月刊誌「母の友」連載時に多くの共感を呼びました。

🌟目次
アウェイ感
身ごもる
ほどく
身体の記憶
3・11

★どんな著者

宮地尚子 著
兵庫県生まれ。京都府医科大学卒業。
一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究選考・教授。精神科医師。医学博士。
専門は、文化精神医学、医療人類学、トラウマとジェンダー。一九九三年、同大学院修了。
一九八九~九二年、ハーバード大学医学部社会医学教室および
法学部人権口座に客員研究員として留学。
近畿大学医学部衛生学の教室勤務を経て、二〇〇一年より現職。
著書に『環状島=トラウマの地政学』 (みすず書房刊)、
『傷を愛せるか』(大月書店刊)、『』震災トラウマと復興ストレス』(岩波ブックレット)、
『トラウマ』(岩波新書)などがある。

呉夏枝 画
一九七六年、大阪府生まれ。美術作家。
二〇一二年、京都市立芸術大学美術研究家博士課程修了。
主に、染織、詩集、編む、結ぶなどの技法を使って作品を制作。
織物を記憶が織り込まれたメタファーとしてとらえ、
ほどくことで記憶を想起しようとするインスタレーションや、
音声や写真を使った作品なども展開している。オーストラリア在住。

★学び

 母もまた、子である

今までつきあっていたときには見えたことのなかった表情を見せたり、
子どもに赤ちゃん言葉で話しかけたりする彼女は、これまでの彼女でありつつも、
新しく母として生まれたのだ。
それまでの彼女が消えてなくなったわけではない。
私が子どもをあやしている間や子どもが眠っている間、彼女はパソコンを操作して、
外の世界や仕事とつながっている。私と仕事の打ち合わせをしたりもする。
そういった彼女の上に、新たに母として生まれるという経験が加わったのだ。
それらは時には衝突したり、矛盾したりしながらも、彼女の中で融合していく。

わたしの目から見る母親は、ただひとり母しかいません。

しかし、

仕事場での母、ママ友と一緒にいるときの母、

同窓会で友だちと集まっているときの母、地元に帰省したときの母。

どれもわたしにとって母ではあるが、

その場所や一緒にいる人によって

母にもさまざまな立場があり、役割を担っています。

子どもを産んだ時点で、新しく母も生まれますが、

その母は子どもと同様、母親1年目であり、

母としての経験でみれば子どもでもあるということが言えます。

子どもの誕生日はよく考えてみると
(というか、よく考えなくても)、母親にとっては自分が子どもを産んだ日である。
つまり、出産記念日でもある。

誕生日の夜に出てくる誕生日ケーキ。

わたしに向けて歌ってもらうバースデーソングや

わたしにだけ多く乗せられたイチゴや砂糖菓子が

誕生日を迎えたわたしが主役であると言っているようで、

「おめでとう」と言ってもらうことが当たり前、

それに対して「ありがとう」ということが当たり前と思っていました。

学校の行事で母親に手紙を書いて渡す時に、

自分が存在しているのは、母あってのことであると認識し、

「ありがとうを伝えよう」と聞いてからか、

自分の誕生日は、生まれてきてくれてありがとう。はもちろん、

母に向けて「産んでくれてありがとう」を伝える機会であることが分かりました。

自分が生まれてきたこと。

それは、母が自分を産んだということ。

そして、そんな母もまた、祖母にとっては子であり、

子であった時があります。

今一度、自分の命がある、ここまで育ててきてくれた母へ

「ありがとう」を送ること。

それが、『生まれる』を繰り返してきた過去、

自分の先祖をたどっていった先へも感謝を示すことになります。

この学びのまとめとして、本書の中の言葉を送ります。

親も初心者、子どもも初心者。
二番目の子どもであっても、二番目の子どもを育てるということについて、
親は初心者だ。できて当たり前、ということは決してない。

赤ちゃんの泣き声は心地よいものではない

赤ちゃんという存在はとても可愛く、愛おしく、

見ているだけで癒されるものです。

わたしは、赤ちゃん・子どもが好きなことから

小さい子に関わることを学生時代から多く経験してきました。

しかし、どうしても抑えることが出来なかったのは、

泣き声への不快感。

こんなに可愛いと思っているのに、なぜ不快を感じてしまうのだろうと

なぜか心に闇をもっているような気分になり、自分を責めるように思っていました。

それは、公共の場でも同じで、

どこかで子どもの泣き声がすれば、そこに目線が集まり、

親にとっても周りにとってもストレスに感じてしまう空間が流れることがあります。

電車などで、近くの席の赤ちゃんが泣きだすと、
気にしないつもりでも気になってしまうのは、動物としての人間が
そのようにできているからなのだ。

このストレスは、自然なものであると受け止めたり

誰でも起こり得る、手にする感情であると思うことが出来れば、

このストレスもストレスとして生じなくなったり、

親へ手を差し伸べることが出来ます。

自分も含めみんな、かつては泣きわめいたり、
なかなか泣き止まない赤ちゃんであったことを思いだせば、
よりサポーティブな子育て環境ができていくかもしれない。

この考え方は、相手が赤ちゃんであっても大人であっても言えることです。

誰しもが生まれたときは赤ちゃんであり、

子どもの頃があったと思うことが出来れば、

今出来ていること・出来ていないことも大きく成長したことであり、

小さな「できた!」の積み重ねが今の自分を創り出しているのだ。

と、今の自分を肯定的に前向きにとらえることが出来るのでは、と思います。

いいことを見てあげること

いいこと日記というのを、数か月前から続けている。
その日のよかったことを三つ、簡単にメモするだけのものだ。
悪かったことは、あえて書かない。

作者はこのいいこと日記を通じて、

いいことはたくさん起きているのに、それらを当たり前のように受け止めて、

じゅうぶん味わっていなかったこと。

うまくいかなかった出来事のほうにばかり注意を向けていたこと。

そして、なぜうまくいかなかったのだろうと不満を持ったり、

もっとこうしておけばよかったと反省したりすることに、

多くの時間とエネルギーを費やしていたことが見えてきたと述べています。

世の中には、ひどいことや腹が立つこともいっぱい起きている。
いいこと日記を書いていると、そういった悪いことから、
目をそらしてしまっているような罪悪感も、最初の頃は感じた。
でも恐らくそうではないのだ。悪いことはもちろん起きているけれど、
よいこと、楽しいこと、うれしいことも世の中にはたくさんあって、
それを感じる能力をきちんと取り戻した方がいいということなのだと思う。
そして、感じられるようになったら、
それが楽しみや喜びを他者に与えるきっかけにもなる。

自分の長所や短所、子どもの長所や短所は、

人それぞれのものがあり、必ず存在しているとわたしは考えています。

しかし、見方や捉え方を変えることで、短所も長所に変わります。

近所にも親戚にも幼い子がいないという彼女の第一声が、
「子どもって小さいんだねぇ」という言葉だった。それを聞いて、私はびっくりした。
なぜかというと、私自身は「なんて大きくなったんだろう」と思いながら、
日々、自分の子どもたちを見ていたからである。

「こんなだったのが、こんなに大きくなったんだよお」と、
両手で幅を広げて説明しながら、笑ってしまった。
大人からのベクトルと、赤ちゃんからのベクトル。
一メートルというのは、確かに小さくもあり大きくもある。

さまざまな視点をもつことが出来るからこそ、

良いところをみてあげられることが出来れば、

悪いこと・短所もよいことや楽しみ・喜びとして他者に与えることが出来ます。

子育てには、様々な人の支えや新たな視点を持つきっかけが必要です。

★こんな人にオススメ

・子育てのヒントが欲しい人
・自分の母親への理解を深めたい人
・子育てを支えていく人
etc…

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